オール トヨタ 2000GT その1
トヨタワークスの若きエース
'69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。
'69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。
トヨタワークスの若きエース `69JAFGPでGT-Rに1600GTで一矢報いるが、ペナルティー裁定で3位に泣く。 |
高橋晴邦--- 日本のモータースポーツ界がひとつの頂点を迎えた1960年代後半に、彗星の如く現れた天才肌のドライバーである。昭和42年後半にトヨタ自販のワークス・ドライバーとなり、43年にはカローラスプリンターなどでツーリングカーレースを暴れ回った。44年にはトヨタの秘密兵器である5Lニュー7をもドライビングする。そして、48年までトヨタ・ワークスのエース的存在として活躍した。 その甘いマスクと洗練されたドライビングでファンを魅了し、48年と49年にはルマン24時間レースにも出場した。GT-Rのデビュー戦となった'69 JAFグランプリでの果敢な走りは、今なお語り草となっている。 |
"晴邦は東次郎の再来"といわれた。 晴邦 ボクは東京の杉並に生まれたんですが、高校生ぐらいまでは、まったくクルマに興味がなかったんですよ。クルマに興味をもったのは、法政大学の工学部に入学した後でしたね。初めてレースというのを観たのは、40年7月に行われた、例の船橋CCCレースでした。生沢徹のホンダS600がハーフスピンして浮谷東次郎のトヨタスポーツ800が巻き込まれた、あのコーナーで見ていたんです。まさか、東次郎が勝てるとは思わなかったから、あの大逆転劇は衝撃的だった。 |
ボクは43年に全日本ドライバー選手権のTIチャンピオンになったんだけど、そのときに第1回浮谷東次郎賞を受賞しているんですよ。お父さんの洸次郎さんから、トロフィーをもらいました。そのころ、ボクはツーリングカーレースで勝ち続けていたんですけど、トヨタの関係者が口をそろえて「晴邦は東次郎の再来だ」とか走りっぷりが東次郎にそっくり」なんていうんです。毎日新聞の夕刊にも同じようなことを書かれましたね。 このCCCレースを観て感激して、レースに惹かれるようになったんです。大学は小金井にあって、ボクはそこまでクルマで通学していたんですよ。あの当時、クルマで通学する学生なんてほとんどいなかった。ボクはフェアレディ1500(SP310)に乗っていたんだけど、これで大学に通い、青山通りで信号グランプリをしたり、できたばかりの首都高速で友達と競争したりして楽しんでいた。仲間のなかでは速かったんですよ。 ある時、そのうちのひとりが「晴邦、船橋サーキットを走ってみないか」って言うんで一緒に走りに行ったんです。そして実際に走ってみたら、ボンボン抜かれちゃうんだよね。それまで、自分じゃうまいと思っていたからショックだったよ。 |
これを機会にサーキット通いが始まり、タイムもよくなってきた。となると、レースに出たくなったんですね。これは当然ですよね。デビューレースは、41年4月の第2回ゴールデンビーチトロフィー(船橋サーキット)でした。ノーマルのフェアレディ1500で出場したんだけど、いきなり3位入賞しちゃったんです。 条件は3つでしたね。1つ目は、やるからには日本一になること。そして2つ目が、30歳になったらレースをやめること。3つ目がキツかったね。必ず大学を4年で卒業すること、という条件が付けられたんです。 |
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